移民拡大か規制強化か──外国人政策が分かつ参院選の争点

今、日本社会のあちこちで、ある種の“きしみ”が聞こえてきています。

観光地での外国人観光客の急増、工場や介護の現場で増える外国人労働者、そして埼玉・川口市のように、地域と外国人コミュニティの間でトラブルが頻発。

「これは経済のために必要な現象」なのでしょうか?それとも、国の“根幹”を揺るがす危機なのでしょうか?

今回の参院選では、こうした外国人政策、特に【規制強化】を掲げる政党が目立ってきました。

一体、各政党はどこまで踏み込もうとしているのか、そしてその先に何があるのか?

今回はその核心に迫りたいと思います。

政党別・外国人政策の方向性

記事によれば、日本では外国人労働者や観光客の急増により、治安の悪化や社会制度の不適切利用といった問題が顕在化しています。特に川口市におけるクルド人との摩擦は象徴的な事例とされています。

こうした状況に対し、主要政党は大きく「規制強化」か「共生推進」かという2つの方向性で政策を打ち出しています。

  • 自民党:「違法外国人ゼロ」を掲げ、外免切替の厳格化、不動産取得制限、難民仮放免者への対応強化を明示。石破首相は「違法な外国人は認めない」と明言し、保守層へのアピールを強化。
  • 日本維新の会:「人口戦略」の中で外国人比率の抑制、総量規制を主張。重要土地の外国資本取得には事前許可制と利用規制導入を提案。
  • 国民民主党:「外国人土地取得規制法」制定と外国人旅行者向け免税制度の見直し。当初は「過度な優遇見直し」と明言していたが、「排外主義」批判を受けて表現を修正。
  • れいわ新選組・参政党:移民政策に反対。「日本人ファースト」を掲げ、外国人参政権の否定、不動産購入の制限など強硬な規制策を提示。

一方で、立憲民主党や共産党は「共生社会基本法」などを通じて、外国人の受け入れ拡大と多文化共生の推進を訴えています。

それぞれの政党がどのような問題意識を持ち、どの層へのアピールを意図しているのか。その読み解きが、今回の参院選の鍵を握るかもしれません。

「規制強化」の中身と政治的意図

各政党の「規制強化」路線の中身をもう少し精査していくと、そこには「対象」「手段」「言葉の選び方」の3点で明確な違いが見えてきます。

  • 対象の違い:自民党や維新は「不法滞在者」や「外国資本による土地取得」など、具体的かつ制度的な脅威を想定している。一方で参政党は「行き過ぎた受け入れ」そのものに問題意識を向け、「文化や価値観の衝突」に重点を置いている。
  • 手段の違い:維新が掲げる「受け入れ総量規制」は、極めて技術的で計画的な手法。一方、参政党やれいわの姿勢はやや理念先行型で、制度設計の詳細には触れていない。国民民主は「税制や土地問題」のような実利的分野での見直しを主張している。
  • 言葉の選び方:「排外主義」との批判を意識してか、国民民主は表現を一部修正。反対に、石破首相の「違法外国人は認めない」という発言は、保守層向けに強烈なメッセージとして機能している。

つまり、一口に「規制強化」と言っても、

  • 治安・安全保障型(自民・維新)
  • 経済・制度的合理化型(国民民主)
  • 文化的ナショナリズム型(参政党)

という具合に、論点の焦点や目的が異なるのです。

この違いを見極めずに「どこも同じ」としてしまえば、有権者の判断力が奪われてしまいます。

問題は、こうした政策がどのように現実に作用するのか、そしてそこにどんな副作用があるのか、までを見通す“目”が私たちに求められているのです。

制度なき受け入れがもたらす危機

現状の日本はどうでしょうか。もはや“制御なき流入”が既成事実化しつつあります。

370万人という在留外国人の数は、静岡県の人口と同等。これを“制度の裏付けなし”に受け入れてしまっている現実は、極めて危険です。

他国では当たり前のように行われている土地取得規制、日本語能力を条件とした受け入れ、そして社会保障制度の利用制限。なぜ日本では「やる前から議論が止まる」のでしょうか。

“差別だ”“排外主義だ”という言葉は、本来必要な制度設計すら封じる呪文になってしまっています。

例えば、外国資本による不動産取得に歯止めがかからなければ、観光地の利益は全て外国企業に吸収され、日本人の生活は二の次に。

例えば、外免切替制度がザルのままであれば、日本の交通は外国人ドライバーによって危険に晒される。

このままでは、“善意の共生”が“無秩序の放置”にすり替わってしまうのです。

保守の責務とは、伝統を守りながらも、未来への秩序を築くこと。

その意味で、今こそ「慎重でありつつも厳格な受け入れ設計」が必要であり、それは排外主義ではなく「国民を守るという当然の機能」にすぎません。

この視点を欠いた「共生」論こそ、むしろ無責任な幻想なのではないでしょうか。

そして、このような危機感は私一人のものではありません。

ネットの反応を見ても、多くの国民が「共生」という言葉の裏に潜む現実への怒りや不安を口にしています。

  • 「立民は移民を入れて日本を壊そうとしている」
  • 「共生社会の財源は誰が払うのか」
  • 「外免切替を厳格にしろ」
  • 「治安悪化は看過できない」

これらの声は、決して過激な感情論ではなく、“現実を生きる生活者”の直感に基づくものです。

欧州の移民政策失敗例を教訓とすれば、私たちがすべきは感情的拒絶ではなく、制度的備えであり、文化的な線引きであり、国家の主権的責任の明確化なのです。

それこそが、「誰のための国家か」を問い直す第一歩にほかなりません。

「同化と制御」の現実的共生モデル

規制強化を主張する声が強まる一方で、日本社会にはすでに370万人を超える外国人が暮らしています。

その現実を前にしたとき、私たちは「排除」か「無秩序」かという二者択一ではなく、第三の選択肢を模索すべき時期に来ているのかもしれません。

それが、私が繰り返し訴えている「文化的同化」と「国家としての主権的制御」の両立です。

ここで言う「文化的同化」とは、単に文化を押し付けるのではなく、「郷に入っては郷に従え」という日本人が大切にしてきた生活哲学に沿って、日本に暮らす以上は日本の言語・習慣・価値観を尊重する姿勢を求めるということです。

一方、「国家としての主権的制御」とは、誰を・どのように・どれだけ受け入れるのかを、国家が自らの判断で制御し、必要に応じて法や制度で線引きをするという当然の権限行使です。

つまり、「来る者は拒まず、文句も言わず」ではなく、「日本に暮らしたいなら、日本の秩序に敬意を払いましょう」と言える国家へ。

この考え方は、排外主義ではありません。むしろ、健全な共生社会を築くために不可欠な“土台作り”にほかなりません。

外国人が悪いのではなく、「無責任な受け入れ」と「覚悟なき共生論」が国を分断させてきたのです。

日本社会の秩序や文化を守るために、国家としての境界線を明確にしつつ、来日する外国人にも“郷に従う”姿勢を求める。

そのためには、言葉だけの「多文化共生」ではなく、制度・教育・地域社会の整備が不可欠です。

外国人政策は、もはや“一部の論点”ではありません。

それは経済、安全保障、社会秩序、そして国家アイデンティティに直結する重大テーマです。

選挙という場は、このようなテーマに対して私たちがどのような「設計」を望むのかを問う絶好の機会です。

「誰を選ぶか」ではなく、「どんな社会を築きたいか」。

今回の参院選は、まさにその問いに向き合う時なのではないでしょうか。

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